20120815_gougai
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平成24(2012)年8月15日広 報特集号3子ども家庭部 子ども課 ☎3981-2187事ではなく、誰が起こしてもおかしくない身近なことだと実感しました。 誰ともつながりを持たなくなった人は、インターネットやゲームにのめりこむようになり、本来あるべきはずの、人を思いやる温かく優しい心が片隅に追いやられて、一方的に自分の不満やイライラをぶつけようとします。さらに、残虐で冷たい心が大きくなることもあり、犯罪などにつながる行動をしてしまう人が出てくるのです。 今のような状況を脱するには、たくさんの人と積極的にコミュニケーションを取らなくてはなりません。しかし最近は、コミュニケーションをとるのが面倒くさい、一人で家にいたほうが楽だ、「プライバシーの侵害」だ、という人も少なくありません。ではどうすれば自然とコミュニケーションを取れるようになるのでしょうか。まずは家族とたくさん会話をすることから始まるのではないかと思います。いきなり地域の人とコミュニケーションを取ろうとするのではなく、最も身近なところから始めることが大事です。家族と十分にコミュニケーションが取れるようになったら、次は地域の人々です。 地域の人々とコミュニケーションを取るのは少し難しいと感じます。しかし、挨拶ならだれでも出来ます。私の住んでいる地域の人々は、すれ違うと挨拶をして話しかけてくれます。挨拶をすると自然に人と話したいという気持ちになり、今日は良い天気ですね、この花はきれいですね、などと自分からも話しかけることが出来るようになります。元気な挨拶が飛び交えば、家全体、町全体、世の中全体が明るくなっていくのではないかと思います。 まずは、自分からマンションの中や街中で会う人に元気に挨拶をして、「人との関わりチェーン」を繋げ直す努力をしたいです。そして日本、さらに世界が挨拶の渦に巻き込まれる位にコミュニケーションが活発になり、笑顔が飛び交うようになるために、挨拶から社会を築いていきたいです。 「いのち」と聞いたら、人はどんなことを思い浮かべるだろうか。私は、「誰にでもあり、絶対になくしてはならない大切なもの」だと考える。「いのち」をなくしたら、一生に一度の人生を味わえなくなってしまう。人は、何のために「いのち」を持って生きているのだろう。私は、「幸せになるため」であり、もしくは「幸せにするため」、「夢を追いかけるため」だと考える。だから、殺人や犯罪というくだらないものなんかで、人の「いのち」を「人生」を「夢」をこわしてはいけないんだ。 私が、「いのち」の大切さを学んだのは、小学3年生の頃だった。普段から、テレビやドラマを見て沢山泣いていた。でも、本気で泣いて苦しんだのは、おじいちゃんの「死」だった。 小さい頃から、おじいちゃんには本当にお世話になっていた。家が近かったため、毎日毎日遊びに行って、お散歩をして、お菓子を買ってお泊りもして、おじいちゃんには沢山お世話になった。大好きで大好きでたまらなかった。 私がどんどん大きくなっていくと、おじいちゃんはどんどん歳をとった。私は引っ越して、おじいちゃんの家から少し遠くなった。お散歩もお泊りも、段々少なくなっていた。 ある日、おじいちゃんが入院することになった。「がん」だったみたいだ。でも、おじいちゃんのお見舞いに行ったら、あまり辛そうではなかったから、私は心のどこかで安心していた。だから、おじいちゃんのお見舞いに行く回数も少なくなっていた。おじいちゃんは、どんどんやせて細くなってしまった。 そして2月14日、あの日が来た。私は、午前中はバレーボールに行き、午後からおじいちゃんのお見舞いにいく予定だった。お昼近くになったら、お母さんが迎えに来た。おじいちゃんの状態が、良くないらしかった。家族みんなで車に乗って、急いで病院へと向かった。 しかし、病院に着いた時にはおじいちゃんの意識はなかった。普段全然泣かないおばあちゃんも、泣きはてたような目で、やさしい表情でおじいちゃんを見ていた。まるで、「頑張ったね。おつかれ」と言っているかのようだった。おじいちゃんの状態を前にしながら、そんなおばあちゃんを見て、もっと悲しくなってきた。そして、涙があふれ出てきた。落ち着いた呼吸もできないくらい、胸が痛くて苦しかった。「おじいちゃん!おじいちゃん!!」口に出すことはできなかったから、心の中で必死にさけんだ。お母さんもお父さんもお兄ちゃんも、おじいちゃんの兄弟の方々も、みんな泣きながら必死におじいちゃんを呼んだ。しかし、おじいちゃんの意識は戻らなかった。 私は、おじいちゃんの「死」を、受け入れることなんてできなかった。だけど、受け入れなければならなかった。 初めてのお葬式で、初めてのことが沢山あった。長い間、お坊さんのお経を聞き、おじいちゃんを花でいっぱいに包み、大きいドアの中に入れられた。戻って来たその箱には、骨になったおじいちゃんがいた。姿、形は全くなくなってしまった。 最後におじいちゃんの笑顔を見たのはいつだろうか。もう一度だけ、おじいちゃんの笑った顔が見たかった。もう一生、おじいちゃんとは会えないと考えるだけで、苦しかった。後悔もした。もっとおじいちゃんと一緒に過ごしていたかった。もっと笑い合っていたかった、と。 そして、小学5年生の3月、お父さんの母、私のもう一人のおばあちゃんが亡くなってしまった。やっぱり、大切な人が亡くなってしまうのは、とても苦しかった。 もう一人のおじいちゃんは、私が生まれた時からいなかったため、あとはおばあちゃん一人になってしまった。私は、「もう大切な人を失いたくない」と心から思った。おばあちゃんだけは、「絶対に大切にしよう」と決めた。 こうして、私は「命の大切さ」をとても深く知った。そして、殺人や犯罪というくだらないことで、「大切な命を無駄にしてはいけない」と強く感じた。 だから、私はもう一度言う。そんなくだらないことで、人の「いのち」を「人生」を「夢」を、こわしてはいけないんだ。 こうして、私は一人一人の一つしかない「希望の「いのち」」を、大切にして生きていこうと思いました。優秀賞 平成二十四年四月、京都で登校班で登校していた小学生の集団に車が突っ込み、沢山の小学生が死んでしまいました。この事故で死んでしまった人は、小学生だけではありません。つきそいのお母さんと、おなかの中の赤ちゃんも死んでしまったのです。このニュースを見て、お母さんは、「本当にかわいそうやな~。死んじゃった人もかわいそうやけど、一気に家族なくしたお父さんは、もっとかわいそうやな~。」と言っていました。私も、車を運転していた人を恨みました。「こんなに沢山、大切な命をうばうなんて。」と。 私は小さいころ、命の大切さは、あまりしりませんでした。なので、学校で友達に嫌なことを言われた、された時は、いつもといっていいほど、裏で「あいつなんか、死んじゃえばいいのに。」などと、暴言を吐いていました。ある時、弟とケンカしたとき、いつもいつも、私にばっかり言ってくるお母さんに、私は、ガマンができなくなって、大きな声で、「ママも祐弥(弟)も大っ嫌い!死んじゃえばいいのに!」と言ってしまったのです。言ってから私は、はっ!しまった!と思いました。しかし、お母さんは怒らず、しずかに、「何で、そんなことを言ったのか、理由を言ってごらん」とやさしく聞いてくれました。私は怒られるとしか思ってなかったのでびっくりしました。泣きじゃくりながら、何で言ったのか、本当のことを言いました。それを聞いたら、お母さんも弟も、「ごめんね。」と謝ってくれました。私も言いすぎてしまったので、謝りました。その後、お母さんは、「いのち」の大切さを教えてくれました。「命とは、一人、一つしかもっていない、大切なものなんだよ。だから、簡単に、『死んでしまえ。』なんて言ってはいけない。これからは、そんなこと言わないでね。祐弥も。」 それから私は、「死ね」という言葉を言っている人に、「そんなに簡単に言っちゃダメだよ。」と教え始めました。お母さんが言ったのと同じように。 このように、私は命の大切さを知り、教えていきました。今では、もう、ニュースなどで、事故の話を見たり、聞いたりしたら、また、大切な、たった一つのいのちがなくなった、と思うようになりました。あなたも、いのちの大切さが分かりましたか。それと同時に、自分の「いのち」も、他の人の「いのち」も大切にしようと思いませんか。あ、今でも、皆に「死ね」なんて言葉、簡単に言ってはいけない、と、注意していますよ。 今年の四月、大好きなおじいちゃんが亡くなりました。 私の目の前で横たわっているおじいちゃんは、眠っているようで、死んでしまったという実感はありませんでした。告別式までいっしょにすごしてたくさん話しかけました。 告別式の時、お棺に入ったおじいちゃんにみんなでお花をあげました。その時、急に悲しくなって涙が止まらなくなりました。大きな声で泣いてしまいました。おじいちゃんがいなくなる、と思うと、悲しくて悲しくて仕方ありませんでした。火そう場へ向かうバス中でもずっと悲しくて泣いていました。火そうが終わってお骨になってしまったおじいちゃんは小さくなってしまいました。 大切な人が死んでしまうということが、こんなに悲しくてつらいことだと知りました。おじいちゃんはきっと天国に行ってたのしくしてくれていると思います。でも、残された人はみんな、まだ悲しんでいます。いのちというものは自分だけのものではないのかもしれません。死んでしまうということは、周りの人にこんなに悲しい思いをさせてしまうのだから、自分の勝手で命をそまつにあつかってはいけないと思います。 四十九日の法要でご住職が『大切な人の死をきっかけに、自分の命を見つめなおしてください。命が消えてしまうときはだれにでもおとずれます。それを実際に目にした皆さんは、これからどうあるべきか、どうぞ考えてください。』と話してくださいました。 命が消えてしまう時、それは誰にでもどんな物にもやってきます。それはとてもこわいことだし、悲しいことです。私は、おじいちゃんが死んでしまったことで、その事が本当によくわかりました。いままで、命を大切に、と言っていても、本当は命の大切さをわかっていなかったのかもしれません。いのちを大切にするというのは、自分のまわりのすべてのものを大切にするということかなと思います。人も、動物も、植物も、本やえんぴつも、私のまわりにあるすべてのものを大切にすることが、自分の命を大切にすることだと思います。 私は、おじいちゃんが死んでしまった時の悲しみを忘れずにいたいと思います。なぜなら、同じ悲しみを私の大切な人たちにさせないようにがんばって生きていくためです。命が消えてしまうその時まで、決してあきらめることなく、努力してがんばっていきたいと思います。優秀賞常任委員長賞千登世橋中学校 2年山本 紀乃さん修復に挨拶を」修復に挨拶を」やまもと き の目白小学校 4年生米山 美紅さんよねやま み くいのちが消えるときいのちが消えるとき朋有小学校 6年生澤村 真知さん「いのち」の大切さ「いのち」の大切ささわむら ま ち「希望のいのち」池袋中学校 1年生奥野 可奈子さん「希望のいのち」おくの か な こ

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