20140815_gougai
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直通) ☎3981-21873推進委員長賞推推推推進委員長賞推推推推進委員長賞優秀賞優秀賞長崎小学校 4年生田中 俊行長崎小学校 6年生大野 実乃理あいさつあいさつおおの みのりたなか としゆき西池袋中学校 2年生大竹 亜美西池袋中学校 2年生高橋 怜央支え合う切さについてたかはし りょうおおたけ あさみそ、どう生き。間入院したた。最初は、かおかしいとて、熱も、三きました。でも、けもらって様が改善せず、」というので、膜脳炎だか早く気付いけど、一週間して、心臓がた。意識がたらしく、母が、ったそうです。査も、たくさしています。当たり前に思っています。落とす人がいもったいないたり、どうしたたらうまく、周しれません。う少し、他に方法があるんじゃないかと考えてもいいと思います。考えぬいた末に死ぬ覚悟をもったとしても絶対に、その前に、まだ誰かに言ってないとか、相談できなかったとか、勇気を持って言ってみたけれど、あまり真剣に聞いてもらえなかったとか、何かしら後悔が残るようなまま、死を選んでいるんじゃないでしょうか。もしそうだとしたら、それは周りの人達にも責任があるかもしれないので、自分一人で、全部かかえこまないで、死を選ぶ勇気があるなら、誰かに話す勇気を持って、生きるという道を選択してほしいとすごく思います。それだけせっかく選ばれて、この世に生まれてきた命なのだから、嫌なことがあっても、絶対無駄ではないはずと思うので、良い事も絶対あると思って、そういう時は、精一杯がんばったらいいと思います。そして、つらい体験をした人の方が、人の心が良く分かって、優しくなれると思うし、人の痛みも分かる良い人になると思います。がんばって、命の大切さを感じながら、色々な事に感謝していると、幸せが自然と、きそうな気がします。 ぼくは、これからも、困難にあたったとしても、初心を忘れずに、もらった命を大切にしていきたいと思います。 命…。私はこの作文を書くにあたって、命とは何か、どういうものなのか考えてみた。命といわれても、正直今まで考えてみた事もなく、あまりピンとこない。考えれば考えるほど、何なのか?何なのか?と頭が混乱するようであった。だが、いくつか思ったことがある。 まず、一つ。私は、なぜ今生きているのか考えてみた。思ってみれば私はもう産声をあげてから十三年もたっている。十三年たっているということは、十三年前はまだ赤ちゃんだったということだ。同じように、私の父だって、母だって、おばあちゃんだって子供の時代があったはずだ。でも、もし、その中のだれか一人でも生まれていなかったら…?私はもしかしたら生まれていなくて、ここにもいなかったかもしれない。そう考えると、今私が生きてここにいるという事はとてもすごいことなのではないかと思う。私が知らない昔の昔から、その命のリレーはつながり、とぎれることなく続き、今私のところまで来たのではないか。そう考えると、今生きていることがとてもうれしくなる。そして、そのリレーのバトンを、今私は受け取っているのだ。そのリレーを、私は止めたくはない。命は、一人の人間に、一つしかないかけがえのないものだ。ゲームの世界とは違う。ゲームは、失敗しても、死んでしまってもまたやり直せる。だが、人間は一度死んでしまえば、もう、もとにもどることはできない。そんなかけがえのない一番と言ってもいいほど大切なものを、簡単に捨ててしまっていいのか?今の社会では、色々とやっかいなものがある。例えば、いじめ、殺人、目に見えない様々なこと。この多くが人と人との問題ではないだろうか。なやんでいること、困っていることがあり、自分で命をたつ人も少なくはない。そして、ほんのささいなことで多くの人がぎせいになる事件も少なくはない。だが、これらの多くは、皆心の中で何かなやんでいることがあり、一人で抱えこんでしまい、追いつめられた末にこのような選たくをしてしまったのではないか。私はそう思う。殺人犯というと、その人だけが悪いように思えてしまう。だが、その人だって事件を起こす前に何かなやんでいたのではないか。長年、なやんでいて、社会や世の中に不満があったのではないか。そう思えてしまう。自ら命をたつことも大事件が起きることも、誰かになやみを相談する、打ち明けるだけで、防ぐことができるのではないだろうか。一人でかかえこむのはつらい。だれかにほんの少しの勇気をふりしぼって相談してみる。それだけでもかなり心が軽くなるのではないか。そう思う。 人は、誰もが支え合って生きている。「人」という漢字のように。だから、たまには誰かにたよってもいいのだ。だからその分、支えてあげよう。それだけで、きっと世界は変わると、私は思う。にあいさつをしている。私い時も旗ふれる。それは、つをかわしてうね。」や「今てね。」、ととことも忘れら人もいれば、べれないのだ省した気持ちない人もいる。たらどうだろう。。あいさつがあいさつをする人だと思う。顔を送る。そるのでとてもうれしい。しかし、人はみんなちがうから笑顔を送られた人の気持ちはさまざまだ。だから知らない人が笑顔を送ってくれないのは、さみしいが悪いことではないと思う。しかし、毎日会っていてあいさつもしてくれて、やさしい声がけをしてくれるのにあいさつをしないことは意味がちがう。どんなに悲しくて、いやなことがあったとしても、それは自分だけでほかの人は知らないし、関係ない。きっと自分からあいさつが出来ない子は、自分からあいさつが出来るように、あいさつをしている人はあいさつを返してくれるような笑顔が必要だと思う。 私は家でも学校でも人を傷つける言葉を言ってしまう。分かっていても、ついついでてしまうのだ。言ってしまった後は反省の気持ちでいっぱいになっている。それを続けていくと、今度はある一言から大きな「いじめ」にもつながることもあると思う。それを止めるのがあいさつ。「おはよう」「またね」とたった一つの言葉でそのいじめは少しずつ少しずつ、なくなっていくと思う。だからといって人を傷つけるあいさつは絶対にいけないことだ。言った人がだれであろうと関係ない。私は許さない。 だから私は、いつまでもみんなの帰りを待っている旗ふりのおじさんみたいに元気にしてくれる、勇気づけてくれる、笑顔にしてくれる言葉を常に話していきたい。そして、そんな心のやさしい人になりたいと心から強く思う。もし、自分がだれかに人を傷つけるような言葉を言ったら、自分にきびしくしかり、自分が言われたらどうかを考え、反省する。これからは中学校へと新たな大人の道を進んでいく。生活がきびしくなっていく中でも、あいさつで人を笑顔にさせていきたい。これからもずっと。笑顔で顔を合わせれば、それはもうあいさつだ。 学校でも家でも、あいさつは大切だとよく言われる。「明るい声であいさつしなさい。」とも言われる。 ぼくは今まで、言われた通りに大きく明るい声であいさつするようにしてきた。けれども、なぜあいさつが大切なのかについては考えたことがなかった。あいさつは、なぜ大切なのだろうか。 ぼくは、友達があいさつをしてくれたとき、とてもうれしかったので、きっと友達も、あいさつをしてもらったらうれしいだろうと思う。反対に、あいさつをされなかったら、気分が落ちこむと思う。 また、どんなふうにあいさつするか、あいさつのしかたも大切だ。あいさつは、相手につたわらなければ意味がないと思う。たとえば、暗い声だと、あいさつしているつもりでも、相手に聞こえなかったり、明るい気持ちになってもらえなかったりする。下を向いたまま相手の顔を見ないであいさつすると、相手は、あいさつしてもらっている感じがしない。いいかげんなあいさつは、相手を軽く見ているような、ふざけた感じがする。相手をふゆかいにさせてしまうかもしれない。あいさつは、相手の心につたわるように、明るい声で、相手の顔を見て、笑顔でするのがよいと思う。 朝、学校へ行くと中で、友達の他にも近所の人達や交通指導員さんがあいさつをしてくれる。ぼくも元気よくあいさつをしている。あいさつをすると、楽しい一日が始まった感じがする。きっとみなさんもぼくと同じように晴れ晴れとした気分になっているにちがいないと思う。街のみんながたくさんあいさつをしあえば、きっと明るい社会になると思う。 ぼくは、まわりの人に自分から、明るく元気にたくさんあいさつをするようにしたいと思う。作文コンテスト 小学生の部 受賞者

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