20150801_1653
4/12

立教大学4広報としま特集版 平成27年(2015年) 8月号 No.1653豊島区役所 〒171-8422 豊島区南池袋2-45-1 ホームページ http://www.city.toshima.lg.jp/袋の駅周辺は焦土と化し瓦礫が地をおおっていました。この瓦礫の中から庶民は、たくましく立ち上がってまいりました。「たけのこ生活・栄養失調・浮浪者・モク拾い・カストリ・かつぎ屋・やみ成金・サンドイッチマン・パンパン」などの言葉にみられる荒廃のなかから、庶民は自由市場を生みだし、権力の外に交易の場を創造していきました。通称、ヤミ市のことですが、ヤミ市にみられる裸の日本人のたくましい生き方、強烈な体験こそ、その後に続く、日本経済発展の原動力になったのではないでしょうか。戦後の日本人を形成した精神の原型は、あのヤミ市のうちにひそんでいるように思えます。ヤミ市を否定的にとらえるのではなく、今日の日本人の生きざまの原点として捉えかえしてみてもいいように思われます。こうして豊島区は豊饒な都市の文化を創造していったのでした。和20年代、とくにその前半5年間の都市生活は、口にできないほど貧しいものでした。(中略)この時代、「公定」の世界のもつ不合理や無理をおぎなうものとして、「ヤミ」の世界は人びとが生きていくために絶対の必要性をもっていました。(中略)その「ヤミ」を集中的に表したのが、「ヤミ市」でした。ですから、都市の生活から逃げ出すことのできなかった当時の人々は、そのうち大部分がこの「ヤミ市」のおかげを被って、昭和20年代の前半を生き延びてきたはずです。こうしてみると「ヤミ市」は、必ずしも今日その名前から連想されるような暗い、気味悪いものばかりではなかったのです。いいすぎかもしれませんが、それは明日に生きようとする庶民に、明日へ向かってのエネルギーを供給する素朴なエネルギー供給源だった、とさえ考えられます。1962年 池袋西口マーケットの取壊し(豊島新聞社提供) 1962年 池袋西口マーケットの取壊し(豊島新聞社提供) が れき1945(昭和20)年終戦翌月から都内各所でヤミ市(露店)が開かれ、ヤミ値の食料品や雑貨が出回り始める。最高闇価格は、米1升70円〔53銭〕、砂糖1貫匁1,000円〔3円50銭〕など(10月警視庁調査、〔 〕内は基準価格)1946(昭和21)年池袋露天商組合、東口駅前(現東池袋1丁目地内)に都内第1号の「連鎖市場」(森田組東口マーケット)開設。露店から1~2坪の木造長屋式店舗へ(約300店舗)、以後翌年にかけ池袋駅周辺10数か所に広がる(地図参照)戦災復興土地区画整理事業(池袋駅付近)決定1949(昭和24)年東口マーケット(450坪365軒)取り壊し始まる1951(昭和26)年池袋東口の露店対策として「人世横丁」誕生1961(昭和36)年池袋西口マーケット509戸、2億円の保証で取り壊し開始1962(昭和37)年池袋西口駅前マーケット200戸除却命令、取り壊し強制執行1954(昭和29)年西口マーケット暴力女給の客引き問題化1952(昭和27)年東口駅前広場完成(東口マーケット姿を消す。このころ池袋西口マーケット985軒)1955(昭和30)年東横百貨店前14戸立退き強制執行開始、西口区画整理本格化「豊島区史」通史編3および年表編をもとに作成1955年 池袋西口マーケット(豊島新聞社提供) 1955年 池袋西口マーケット(豊島新聞社提供) ❷至要町方面至千早町方面ジオラマについてこの特集の随所に見られる模型の写真は、郷土資料館常設展示室「池袋ヤミ市」コーナーに展示してあるジオラマの一部です。これは、池袋駅東口駅前にあったヤミ市の南側部分を20分の1の縮尺で再現したものです。時期は1947(昭和22)年の夏を想定しています。ほうじょう

元のページ  ../index.html#4

このブックを見る