20201115_gougai
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雪岡 忠義さんゆきおか  ただよしかぎられた命優秀賞 命とは形では見えないものです。そしてだれもが大切だと感じるでしょう。大切なものならずっとそのままでいてくれたらいいのにと思います。でも悲しいことに命にはかぎりがあります。そのかぎりがいつまでなのかも全く分かりません。ぼくは3つのことを取り上げて命について考えてみました。 まず1つ目はコロナウィルスです。このウィルスによって命を落とした人がたくさんいました。国内の死ぼう者数は9月17日現在1,473人にもおよぶそうです。今でも油断はできない状きょうが続いています。ニュースを見ていると、命がけで立ち向かっているお医者さんやかんごしさんの姿が映っていました。ぼくはこの時、自分の命をぎせいにしてまで働いている人たちがいることを知りました。そういった人たちのためにもぼくたちは感せん予防をしっかりして少しでも感せん者数をへらしていくことが大切だと思いました。どんな小さなことでもいいから、一人一人が意識して今できることをすればいいんだと思います。例えば、うがいや手洗いをすること、ソーシャルディスタンスを守ることです。大好きな学校が休校になってしまったのはとてもさみしかったけれど、命を守るためだから仕方ないのだと考えました。これ以上人の命がうばわれていくのはいやです。5月29日の空を見た人はいますか。医りょう機関への感謝の気持ちをこめてブルーインパルスが空を飛んでいました。ちょうどぼくの家の真上を飛んで行きました。すごくはく力があってかっこよかったです。きっと医りょう機関の人たちにありがとうの気持ちがとどいているはずです。ぼくも心からお礼を言いたいです。 2つ目は道徳の教科書で読んだ「命の詩」です。ぼくはこの詩の中で、命は電池みたいだと例えてひかくしているところがすごい発想力だなと思いました。この詩を書いたのは小学4年生のみやこしゆきなさんという女の子です。電池はいつか切れるけど朋有小学校 5年生宮本 来夢さんみやもと らい むさくらねこ優秀賞駒込中学校 2年生たった一つしかない命優秀賞煌く明日の明るい社会のために優秀賞目白小学校 6年生神農 凌さんかんのう りょう駒込中学校2年生大川 紗奈さんおおかわ  さ な取りかえればまた使える、でも命はいつかなくなるけど取りかえることができないと言っているのです。ゆきなさんがこのように感じたのはきっと生きたくても生きられない状きょうにあったからだと思います。命をそ末にする人もいるけれど、生きたくても生きられない子がいることをもっと考えるべきだと思います。ゆきなさんの言葉からは、命の大切さが強く感じられました。ぼくも親からもらった命を大切にしながら今をせい一ぱい生きていくことをこの詩から教えてもらいました。今の自分にできることを一生けん命やっていこうと思います。 そして3つ目はひいおばあちゃんがなくなった時です。はなれて住んでいたので遊びにいくと、とても喜んで待っていてくれました。足がいたくてもたくさん遊んでくれました。おそう式が終わって、四十九日が終わって、月日が流れても、ひいおばあちゃんはいませんでした。食事の時もいつもすわっていた席にいないし、テレビを見るときにすわっていたお決まりのざいすにもどこにもいませんでした。ひいおばあちゃんを電池で取りかえることができるならどんなにうれしいことでしょう。2つ目で話したように人の命は一度なくしたらどんな方法を使っても取りかえることはできないのです。ぼくはひいおばあちゃんの分も一生けん命生きようと思いました。91年間のかぎられた命でした。 「命あっての物種」ということわざがあるように、何事も命があってこそできるということが分かったような気がします。ぼくが今ここにたっていられることはすばらしいことだと感じるようにもなりました。自分の命はもちろん大切ですが、周りのみんなのことも大切にできる人間になりたいです。ぼくがこうして元気に登校できるのは命があるからです。毎日、怒ったり泣いたり笑ったりできることは幸せなことだと思いました。一つしかない命を大切にして、せい一ぱい生きていこうと思います。 白いポメラニアンの赤ちゃんが家にいて、家族でそのポメラニアンを可愛がっている、僕は時々こういう夢を見る。目覚めて、夢だと確認した時のなんとも言えない寂しさは、しばらく余韻を残すほどである。小さいころから動物を飼うのが夢で、何度も両親に交渉したが、いずれも却下されて終わった。動物好きの僕にとって、ペット一匹も飼えない現状は、非常に残念なもので、その思いがしばしば夢を見させるのかもしれない。 ペットを飼えない分、動物の存在に敏感になっているのか、周りの動物が目につくようになった。僕の住むマンションの周りには、常連の野良猫が何匹かいるが、そのうちの茶色の猫の耳が少し変わっている事に気がついた。なんと、V字形に切り込みが入っているのである。はじめは、怪我をしてしまったのか、もしくは病気なのかと思ったが、調べてみると、「繁殖できないように手術を受けている証」だということがわかった。耳が花びらの様な形にカットされていることから、このような猫を「さくらねこ」と呼ぶらしい。ではなぜ、「繁殖できないように手術を受ける」のだろうか。 日本では、年間約35,000匹もの猫が行政により殺処分されていて、その多くが生後間もない子猫だそうだ。 そもそも、なぜ、殺処分をしなければならないのか詳しく調べてみると、次のようなことが分かった。 犬の場合は、「狂犬病予防法」により、飼い主のいない野良犬は行政機関が捕獲しなければならないが、猫を捕獲しなければならないという法律はない。ただ、一般市民が「拾った」「保護した」といって持ちこんだ場合は引き取り義務がある。また、飼い主のいる場合でも、「動物愛護法」により、飼い主から引き取りを求められた場合には引き取らなければならない。 こうして引き取った犬や猫がどんどん増えてしまうと、税金で養い続けるのが難しくなるため、やむをえず殺処分するしかなくなるというのだ。そして、持ち込まれる猫の多くは、野良猫が産み落とした子猫のため、殺処分されるのは子猫が多くなっている、ということのようだ。このような悲劇をなくし、殺処分ゼロを実現するために、公益財団法人「どうぶつ基金」という団体が、野良猫を捕獲し不妊手術を施し元に返すという活動をしているという。それが、「さくらねこ」と呼ばれる猫の実態だったのだ。 さて、野良猫が産み落とした子猫にとどまらず、行政に持ち込まれる犬や猫の中には、「赤ちゃんの頃は可愛いと思って飼ったが、成長するにつれて思ったのと違った」という実に身勝手な理由で飼い主に持ち込まれるというケースも多々あるという。そもそも、野良猫も元をたどれば、飼い猫だったものが捨てられて繁殖を繰り返しているケースがほとんどかもしれない。つまり、殺処分は人間の身勝手さが招いたと言っても過言ではない。 人間は他の動物をペットとして可愛がる一方で、人間よりも命の価値の軽い種族として捉えがちである。僕は、動物とはいえ自らが望んで迎えた一つの命を手放すのに、どんな理由があるというのか不思議でならない。もちろん、突然やむを得ない事情を抱えてしまう人もいるとは思うが「思っていたのと違った」「増えすぎた」の様な信じがたい理由で簡単に捨てる人が飼い主になる資格はないと思う。人間が知力や体力において優れているならば、全ての命を大切にできるよう、知恵を使うべきである。ただ、僕自身も夢にまで見るほどつい簡単に「可愛い、欲しい」と思ったことは否定できない。いまいちど、動物を飼うことを真剣に考え、更に、本当に動物を可愛がり動物好きだと言えるのはどういうことなのか考えてみた。 考えた結果、今の僕にできる動物を本当に思うことは、ペットとして飼って可愛がることではなく、まずは殺処分ゼロを実現させるために協力する事だと思った。そして、さっそく「どうぶつ基金」について調べ、お小遣いの中から少額ではあるけれど、活動への寄付をした。猫の不妊手術には、それこそ人間の身勝手だという意見もあるようで、それも否定はできないが、それでも生まれた命がこれ以上残酷な形で消されないようにするための今できる最善策ではないだろうか? 今夜はさくらねこの夢を見そうである。 命、それは誰もがたった一つしかもっていないかけがえのない大切なもの。私は、今までそこまで深く命の重さについて考えたことがありませんでした。しかし、最近ニュースでよく見る黒人差別や道徳の授業で学び考えるようになりました。まず、1つ目は人間関係です。私は、一度相手の気持ちを考えずに言ってしまったたった一言で相手を傷つけてしまったことがあるからです。その後、考えてみて自分が言われたら嫌な気持になるので謝り解決できました。そんな経験をしたとき、言葉の重みが分かったような気がしました。軽く言ったつもりでも相手を傷つけてしまうことがあると知った時からは、言う前に必ず一度口には出さずに、相手の気持ちを考えてから言うようにしています。こんな小さな出来事でも、命の問題に関係してくることがあるのです。また、私は実際に体験したことがあります。友達から「いつも笑顔だから、悩み事とか無さそうだよね。」と、言われたことがあります。その一言を言われた時に、悲しくなりました。どんな人でも悩みが無い人なんていないと思います。自分はたくさん悩んでいることがあるのに、と思いました。自殺とまではいかなくとも心にグサッと刺さりました。人間関係で何回も悩んできたことがあるけど、救われたこともあります。「大丈夫?いつでも相談してね。」 と、優しく寄り添ってくれた、その言葉だけで気持ちが楽になりました。なので、私はたった一言で嬉しい気持ちや幸せな気持ちになる反面、悲しい気持ちや嫌な気持ちになることもあると分かりました。これからは、その一言で相手がどんな気持ちになるかを考えてみてください。2つ目は、SNSとの関わり方です。今はSNSがあるのが当たり前、SNSで色んな人と繋がるのも当たり前のような時代になっています。便利で楽しいものでもありますが、誹謗中傷によって追い詰められて自殺することも増加しているのです。私は、スマホを持っていなかった時は仲間はずれにされないか心配していたことがあります。でも、実際はそんなことはなかったけど、持っていることに少し安心しています。また、友達とメールのやり取りをしているときに、誤解を生んでしまったことがあります。何も怒っていないのに、怒っていると勘違いされたことがあり、そのときにお互いに見えていないからこんなことが起こるのだと思いました。そこで、相手の表情や動作どれほど大切なのかを実感しました。3つ目は、一日一日を大切にすることです。私たちは、当たり前のように一日を過ごしていますが、そうではない人もたくさんいます。健康で何も不自由なく過ごすことができていることに感謝しなくてはいけないのです。急に病気になって、今までの暮らしがなくなってしまうこともあります。だから、いつ何が起こっても良いように毎日悔いのない充実した日々を過ごしていこうと思います。今まで、命についてあまり考えることがなかったが、これからは生き方を見直していきたいです。また、最近はコロナウイルスにより亡くなった方も大勢いるので、死は身近にあると学びました。死を望んでいなかったのに生きられなかった人達の分も私は、命を大切に過ごしていこうと思います。 コロナ禍で毎日、暗いニュースが流れていたけれど、僕は大切なことを学ぶことができました。 外出自粛の要請がでて、以前のようにスーパーに家族で行ったり、すきな『ポケモンセンター』などのお店に行ったりすることが困難になり、宅配便や宅急便などの宅配サービスを使って、ほしいものや生活必需品の多くを届けてもらうようになっていました。そんな中、ある日、宅配の人が物を届けに来てくれた時に、お母さんがその宅配の人にマスクを数枚渡しているのを見ました。今ではいつ手に入るか分からない、貴重なマスクをあげちゃうの?と思ってお母さんに聞いてみました。すると、お母さんは、「今は、お母さんたちはコロナにかからないように外出を自粛しているかわりに、宅配の人はずっと外に出て働いてくれているでしょ。けれど、宅配の人にもコロナにかかってほしくない、大切な家族がいるかもしれない。危険をおかしてまで宅配をしてくれることへの感謝の気持ちなんだよ。」と言いました。これを聞いて、今まで外出自粛でつらいな、と思っていた自分がはずかしいと思いました。最近は不審者や、犯罪が少し多くなってしまったように感じるけれど、この、マスクで結がる「思いやり」と「感謝」の心こそが、暗かった社会を明るくすることができると感じました。なぜなら、マスクをもらった宅配の人が笑顔になったからです。 宅配の人や地域の人と関係を保ち、交流を深めることで、わずか数枚のマスクでのつながりが大きくふくらんでいって、「地域」として犯罪や非行をおこしにくくすることができると思い、ほっとしました。これからも日々頑張ってくれている人に感謝し、自分のすんでいるまちを、よりあかるくたのしいまちにしていきたいです。 もう一つ、大切な事を学べた出来事がありました。 最近は、スーパーが「密」なので、お母さんが一人で買い物に行くことが多くなりました。そんなある日、お母さんがある出来事にであいました。 誰がコロナに感染しているか分からない状況で、それでも生活を維持するためにスーパーに来る人たち。けれどあまりにも人数が多いため「一方通行」で規制をしてレジまでお母さんが並んでいた時、おじいさんが弁当の買い忘れに気付き、列をぬけたあと、元の位置に戻ろうとしましたが、戻れず、店員を呼びつけて怒鳴りちらしていたそうです。また禁止されているエスカレーターも勝手に使う人が現れると、次々とそちらに列をなす人がでてきたということもあったそうです。僕はこの話を聞いた時、とても複雑な気持ちになりました。なぜなら、気が張りつめているお客さんが列に戻れないことで怒鳴る気持ちが分かるけれど、みんなが密にならない様に一生懸命働く店員さんに一方的に意見をおしつけるのも、理不尽でおかしいと感じたからです。ここまで、「人」の話しかしなかったけれど、改めて「自分」を考えてみると、自業自得にもかかわらず、お母さんに八つ当たりしてしまったことがあります。しかし、お母さんはこんな話もしてくれました。 ほぼ毎日、いろいろな人からクレームを言われ、対応するとともに、行列をなす人全ての会計をすませるレジの人。その人たちも守りたい人がいるかもしれないのに、みんなのために働いています。だからお母さんが、「毎日ありがとうございます。大変ですね。」と言ったら、レジのおばあさんは、なんと、「いえ、医療従事者の人の方が大変です。」と言ったのです。そのあと、道端で会っても会話をかわすことが多くなりました。僕はおばあさんの決しておごらず、常により大変な人がいることを考える、精神の大切さに気付くことができ、感動しました。 今まで話したことの共通点は、「相手をおもいやり、きちんと考えること」です。僕は日常の中でも「みんな」よりも「自分」を優先してしまうことがしばしばあります。けれど今回の出来事を通して、「自分」を優先したら、その分、「相手」を優先している人が必ずいるということが分かりました。 最近、ニュースを聞いていると、自殺をしてしまうことや、相手を傷つけてしまうこと、わいろをあげてしまうことなどがありました。これらに共通していることは「自分が」苦しい、つらい、自分のために、という「自分」を優先する出来事で暗いイメージがあります。だから、僕は、「自分」を優先しようとする時、たまにでいいから一歩ふみとどまって、「相手」を優先してみることが、社会を明るくすることに結がると思います。だから、僕もやってみようと決意しました。小さな努力が大きな明るいものになると信じています。令和2(2020)年11月15日

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