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平成23(2011)年8月10日広 報とし2子ども家庭部 子ども小学生の部中学生の部長崎小学校 6年生谷川 結理作文コンテスト受賞作品生かされた命に感謝して正しい知たにがわ ゆ り千川中学校 3年生鈴木 寿奈「いのち」命の重すず き かず な 今年の2月11日、私の大切な友達が亡なりました。死因は胃がんでした。 彼女は、私と同い年で普通の区立中学校に入学しました。小学校も違うし、中学校も同じではなかったけれど、私も彼女もミニバスケットをやっていたので、昔からの友達でした。彼女は、バスケットが上手で、私にとっては目標でした。 そんな彼女が1年生の2学期からクラブに来なくなりました。最初は、熱が下がらないとだけ聞いていたので、すぐにまた一緒にバスケットをできるようになると思っていたのですが、2学期の終わり、彼女がクラブに戻ってきた時に入院していたのだと知りました。そして、その時に彼女が今も入院中だということ、そして、がんという病気にかかっていることを聞きました。私は、そのことを聞いて驚きましたが、身近にかかっている人がいなかったし、また彼女が全然身体が悪そうに見えなかったので、きっと治ると思って今までと同じように接していました。 2年生になり、彼女は学校にあまり行けなくなりました。検査などで忙しく、通学の時間がもったいないので、通っている中学校と院内学級と半々で通うようにしたと当時は言っていましたが、今思うと体力が低下してたのだと思います。1年生の頃は出ていた体育の授業にも出なくなり、みんなと同じ給食が食べれなくなり、保健室で昼ごはんを食べていました。それでも、彼女が中学校に通い続けたのは、その中学校に通っていた彼女の沢山の友達と一緒に卒業したいという彼女の強い気持ちがあったからです。私は、お見舞いに行ったときに、よく聞かされました。 しかし、彼女は、卒業を待てずに2年生の3学期に帰えらぬ人となりました。3学期に入ったときに、院内学級をやめて、彼女の中学校だけに通うようになったと聞いていましたが、ひょっとしたらそれは、最期に少しでも多くの思い出を作りたかったからなのかもしれません。クラブにも、バスケットボールをやっと持てるような身体で参加し、毎日私に話しかけてきて、その日の最後には決まって「ありがとう。」と言っていました。まるで明日から会えなくなるかのように。 彼女は、亡なる3週間前、私の誕生日にキーホルダーをプレゼントしてくれました。私に、最初で最後の宝物をくれたのです。 私は、今でも彼女のことを思い出します。特に彼女が本当に中学校を卒業したがっていたことを思い出すたびに、せめてあと1年と少し時間があればよかったのに、と思えてなりません。私たちは、中学校を卒業することが、卒業できることが当たり前だと感じています。実際私も、これまではそう感じていました。私と同年代の中学生たちもそんな風に考えていると思います。 しかし、卒業したくてもできない人が、卒業したくてしたくて、それでもできなかった人が私の友達にいました。そのことを思うたび、私は学校に通えている毎日が、とても恵まれていることだと感じます。もちろん日々の生活に不満がないわけではないですが、普通に生活できていること、それ自体が私にとっては、本当に大切なことです。 世の中には、普通の生活に飽きて、刺激を求めて非行に走ったり、犯罪に手を出したりする若者もいます。その中には、自分の身体を傷つけたりする人もいて、まるでそれをかっこいいことでもあるかのように考えていますが、その人たちにもう一度、自分が生きているということが、普通の生活を送れることが、どれほど幸せなことかを考えてほしいと思います。 「のんちゃんはえらいな!」「何でも一とが大切なんだよ、結果よりも過程がよ。」というのが口ぐせだった祖父。およく教えてくれた、いつもニコニコしていゃん”が去年の12月16日にこの世を去からカゼをひき、大事をとって入院するいなかったので、私にとって12月16日靂だった。 ニュースで殺人や自殺を報道してい人の死は私にとって別世界の事としかいなかった。それが祖父の死で、改め死んでいくことを大きな悲しみとともに実 祖父の入院中は、見舞いに行くたみをとるためにみんなでよくマッサージは毎日「ありがとう。」と言ってくれた。時でもいつも病院の先生や、看護士人々に心配りをしていたそうだ。私も葬の時に棺に入れる手紙を書こうと祖父た日々を思い出すと、祖父は改めて私時間をさいて面倒をみてくれていたこと祖父が当然のように私を育ててくれたとを忘れていたのだ。私は感謝の気持べきだったと後悔した。 祖父に教えてもらった“感謝をする心私は過ごしていった。 今年の3月11日には歴史に残る東日起こった。私の小学校の担任だった先 3月11日。巨大な地震が日本を襲いました。東日本大震災です。私は連日流れるニュースを見て「死」というものがごく身近にあることを実感しました。 私には大切な家族がいます。でも震源地の近くで被災してしまった子供の中にはもう家族と会えない子もいます。私は何か心配なことや嫌なことがあったら、家族と相談したりすることができます。でも、もうそうすることもできない子供達がいると思うと、とてもつらい気持ちになりました。 この地震で命を失った人も沢山います。ある日、全校朝会の校長先生のお話で、津波で瓦礫となった家の前で必ず家族が帰ってくると信じ、何日も待ち続けている少女がいるという話を聞きました。家に帰ってもしも自分がその少女だったら…と考えると、あることに気がつきました。それは、今生きていることが奇跡だということです。毎日学校に行き、思いっきり遊んで、帰る家があって、ご飯を食べて、家族と話をして…。私はそれがあたりまえのことだと思っていました。でも違うのです。地球にとってはほんの小さなことでも私達の生活を一変させてしまいます。それを乗り越えて今を生きるこの命が本当に尊いものだと実感しました。 福島第一原発で冷却作業を行うため、消防員が派遣されることになりました。隊長さんの奥さんは最初は止めたものの、その人の誠意に負けて最後は「日本の英雄になって下さい。」と言ったそうです。私はこの話を聞いた時、すごいなと思いました。それと同時に、自分も何かできることをやろうという気持ちが高まりました。でも何をやればいいのかわからなくなってしまいました。こんなに真剣に考える前は、こうしたらいいなぁとかああしたらいいなぁという案が浮かんでいたのにいざ実行するとなるとそれは本当に被災地の人のためになるのかと思ってしまって何もできませんでした。そこで母に相談してみると母は「そんなに深く考えなくてもいいんだよ。そういう心づかいが大切なんだから。」と言いました。私はなるほどと思いました。私が被災地の人だったらやっぱり何かしようという心が一番うれしいと思ったからです。 私は、被災された方々には大変申し訳ない話にはなりますが、今回の震災を経験して一時一時がとても貴重で、大切な時間だと気づくことができました。だからどんなにさみしくて、もう何もやりたくないという投げやりな気持ちでも前を向いて行こうと思いました。 「死」はいつやってくるかは誰にも分かりません。もしかしたら、楽しい行事を行っている時に、家族とはなれている時にやってくるかもしれません。でもその中で生かされた命に感謝し、せいいっぱい生きていこうと思います。 東日本大震災のニュースの中で、福してきた小学生が避難先で「放射能がうれ避けられたりするケースがある、というした。ぼくは、その記事を読み、とてもとい気持ちになりました。福島第一原子の放射能漏れは、東京でも空気中や水能の量を気にするほど大きな問題ですた小学生は、その原発のそばに住んでい思いをしてきたと思います。それに、避不便な思いや、友達と離れさみしい思思います。それなのに、傷つけるようなり避けたりするなんて、ひどいと思いまし 放射能は、インフルエンザのようなうつったく違います。また、避難している方響がでるほどの放射能を浴びることのなのために避難しています。だから「放射は事実ではありません。それなのに、なになるのか考えてみました。 原因の1つは、正しい知識を持っていると思います。正しい知識を持っていな射能は危険なもので、その近くから来た思ってしまい、避けようとする行動をとっ思います。特に、ぼくたち子供は、大話していると、それを信じてしまいます。福島県から避難してくる時は証明書が宿泊施設やレストランで宿泊や入店をースがあるという話を聞いたりすると、な推進委員長賞推進委員長賞常任委員長賞常任委員長賞作文コンテスト 中学生の部 受賞者

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