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平成25(2013)年8月15日広 報とし2子ども家庭部 子ども目白小学校 5年生舟曵 凌真さん「命」について考えるふなびき りょうま巣鴨北中学校 3年生中西 かのんさん社会を明るくするためには「命なかにし 社会を明るくすると言う事はどういう事なのだろうか…。 社会を明るくするとは、みんなが笑顔で安心して過ごせる事なのでしょうか。 新聞を見ても、毎日たくさんの事件や事故の記事が多く載っていて、これを無くす事など絶対にできないと思います。 でも、その中でたとえ小さくても自分に出来る事があるとすれば、やはり友人や地域の方達とのコミュニケーションをとるという事なのではないかと思いました。 私の家の近くには、独り暮らしのお年寄りが何人も住んでいらっしゃいます。 顔見知りのおばあさんが、自分に何かあった時に気がついてもらえる様に、家賃を振り込みにせず、決まった日に大家さんの所まで持っていく様にしていると聞きました。 そんなおばあさんの部屋のベランダに何日もマットが干しっぱなしの日がありました。 しまうのを忘れて旅行にでも行っているのかと思いましたが、いつもきちんとしている方なのにおかしいなぁと気になって母と一緒に部屋を訪ねてみましたが、おばあさんは出てきませんでした。 それから、大家さんに連絡をして大家さんが区の職員の方と一緒に行くと、おばあさんは玄関で倒れていたそうです。一命は取りとめ病院に運ばれましたが、何ヶ月後かにお亡くなりになられたそうです。もっと早くに発見してあげていれば、おばあさんは元気になれたのではないかと、とても悲しくなりました。 また、名前はわかりませんが、いつも、「おはよう」と元気に声をかけてくれる独り暮らしのおじいさんがいます。 その方が東日本大震災の時に、いつも行くコンビニにパンが無いと困っていました。 その時、私は丁度品物の揃った大きなスーパーで、買い物をした帰りで、パンも持っていたので、買ったパンを分けてあげました。するとおじいさんはびっくりした顔をして、「あなたの食べるパンが無くなってしまう。」と言うので私は「また買ってくるから大丈夫です。」と返事をしました。おじいさんは深々と頭を下げて、「ありがとう。」と言ってくれました。ちょっと照れくさい気分でしたが、喜んでもらえて良かったと思いました。 何日かしておじいさんが、パンのお礼だと言って、私の家にたくさんの大きなイチゴを持ってきてくれました。私は、名前も知らないはずなのに、私が何処に住んでいるのかおじいさんが知ってくれていたんだとびっくりしました。 自分の知らない所で、誰かに見守られていたり、助けてもらっている事がたくさんあるのだという事を初めて知りました。自分でもちょっと意識して、周りを見たり近所の顔見知りの方達とあいさつを交わしたり声をかけ合う事が必要なんだという事を改めて感じました。 そして、悩んでいる友人にも声をかけて、私の周りに笑顔が増えていけば良いと思いました。 このように小さな事を積み重ねていく事が、今の社会を明るくする運動に繋がって行くのではないかと私は考えています。 みなさんは誰かに傷つけられた経験がありみなさんそれぞれ、色々なかたちで傷つけられと思います。そして、その経験はよく覚えてい誰かに問いかけられた時すぐ頭に浮かんでることができるのではないでしょうか。 では逆に、あなたは誰かを傷つけたことはいかけられたら、「はい」か「いいえ」どちらの答なたはすぐに答えることができるのでしょうかられるか分かりません。なぜなら、そのことをえることができないからです。自分が気づかを傷つけているかもしれない、自分は軽い気にとっては違うかもしれない、考え出したらきりこうやって、自分の気づかないうちに「いじめてしまっているのかもしれません。 私は以前、こんな経験をしました。 その時私には仲の良い友達が数人いてはいつも一緒にいました。でも、いつからかそ一緒にいてくれなくなりました。何をするにもいたその子達だけでやるようになって、私は急になりました。なんでこんな風になったのか自からなかった分、余計にすごく悲しくなりましな中でも、一人ぼっちになっている私を支えいました。その友達がいてくれたから、その時いくことができました。そうして時間がたって次は違う子が仲間はずれにさせられるようにして私は、仲間はずれにされることがどれほかっていたはずなのに、もう仲間はずれじゃ安心と喜びのような感情が大きくなってしまいにその子を仲間はずれにしてしまいました。 後々、自分は最低な行為をしたということ 僕は、今まで、お世話になっている人が亡くなったことはあるけれど身近な人を亡くしたことはありません。だから、命は誰でも永遠に続くものではないということは頭ではわかっていますが、自分の家族や僕自身がいつかは死んでしまうということがあまりぴんとこなくて、時々、死というものについて想像すると、とてもこわくて嫌な気持ちになってしまうことがあります。 いつかは消えてなくなってしまうものだから、自分の命はとても大切にしたいと思います。また、東日本大震災を経験したことで、いつなにが起こるかわからないので、突然、大切な人を失って、二度と会えなくなってしまうということもあるかもしれないと実感しました。新聞で読んだのですが、ある子が、三月十一日、学校に遅刻しそうになり、お母さんにあたりちらして、「行ってきます」も言わずに家を出たそうです。お母さんはその日、津波にまきこまれて亡くなってしまいました。あの時、ちゃんとお母さんの顔を見て「行ってきます」と言っていたら…と、その子がとても悔やんでいる様子が書いてありました。だから、僕は、どんなに兄や母と喧嘩をしていても、きげんが悪いときでも、学校に行く時には絶対に笑って「行ってきます」と言おうと決めています。時々、朝急いでいるのに母がとても口うるさくて嫌だなあと思うこともあるし、兄が意地悪なことを言ったりするととても腹が立つけれど、あの新聞記事を思い出して喧嘩したまま、二度と会えなくなってしまったり、最後に交わした言葉がひどい言葉だったらいやだなと想像して、必ず仲直りしてから学校に行こうと思っています。 僕の祖父母の家で飼っていた「太郎」という犬が二か月前に死んでしまいました。十二歳でした。シェパードという警察犬に多い種類の犬で、「大型犬は寿命が短いと言われるから大往生だったのよ。」と母が教えてくれました。太郎は、元気だった頃は毎日祖父が多摩川の河原に散歩に連れて行っていました。祖父は仕事が休みの時は、太郎と庭で遊んだり、仕事に行く前に犬小屋の掃除をしたりしていました。太郎は祖父のことが大好きだったし、祖母や他の家族が言っても言う事を聞かないことがあっても、祖父の言うことだけは絶対に聞いていました。 そんな太郎が足が立たなくなり、ご飯も食べなくなり、段々弱っていき、死んでしまった日、その日は祖父が仕事で大阪に行っていて留守でした。祖母が朝から、何度も犬小屋に様子を見に行き、段々弱っていく太郎をはげましていました。「もう長くはないなぁ。おじいちゃんが帰ってくるまでにもしかしたら天国に行ってしまうかもしれないな。」と祖母はあきらめていたそうです。ところが夕方祖父が帰ってくるまで、太郎は頑張っていたそうです。足音がするたびに、祖父ではないかと力をふりしぼって立ち上がろうとしていたそうです。そして、祖父がやっと帰ってきた時、意識がほとんどもうろうとしていたのに、祖父が声をかけると目を見開いて、頭を一生けん命上げようとして、かすかにしっぽをふったそうです。そして大好きな祖父にやっと会えた太郎はその日に死んでしまいました。大好きな人達に囲まれて、頭をなでてもらいながら天国に行った太郎は、きっと幸せだったと思います。 祖父も祖母も、太郎と楽しい毎日を過ごして、愛情いっぱいに育ててきたので、今はさびしいけれど幸せな思い出がたくさんあると思います。僕は、命について考えた時、自分の命も人の命も一つしかないものなので、「あのときああしておけばよかったなあ。」と後悔することがないように生きていきたいと思いました。 私は今、大好きな友達がいます。しいます。だから、学校がとても楽しいし、すごすことが出来ます。けんかしちゃっんあります。もうかかわりたくないと思ったど、次の日には、おたがいあやまって、すしています。でも、私にも友達がいなかっます。というより、少しだけいじめられていま上ばきをかくされたり、かみの毛を引っ色々なことをされました。でも、色々たえきました。なるべくかかわらないようにしたたないようにしたりしました。すると、いじました。 私は、友達が一人もいない時てもよく分かります。「だれも味方してくれとてもつらく、かなしい事だと思います。の時、私を少しいじめていた子とクラスがた。そして、とてもたのしい学校生活が友達とたくさんあそんだり、おしゃべりした当にたのしい日々でした。転校してきたくして、三年生の時はうれしくてたまりま四年生の時は、別の子と仲よくしていて時仲よくしていた子に、理由は分からなをいわれました。でも別の子が、「だいじょうぶだよ。私は慶乃ちゃんの味私は、この言葉をいわれたときに、なみした。ある日、私の悪口をたくさんいってい「ごめんね、本当にごめんね。」とあやまられました。私は、推進委員長賞★★推進委員長賞★★常任委員長賞★★常任委員長賞★★作文コンテスト受賞作品小学生の部中学生の部

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