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東口❻A5問い合わせ先 申込み先 ホームページ Eメール ファクス フリーダイヤル 保育あり ※費用の記載がない事業は無料です問申HPEMFAX保父の代から、ずっと今のところに住んでいます。終戦当時は中学生で立教に通っていましたので、往きは明治通りから西口方面へ抜ける道、帰りは友達がいたので東口回りでヤミ市の前を通りましたが、東口は現在のヤマダ電機がある区画一帯、西口は駅前から芸術劇場、丸井のあたりまでヤミ市が広がっていて、西口の方が規模は大きく、ずっと後まで残っていました。当時東口で料亭をやっていた家の息子が同級生で、その話では、ここからそこまでと杭を建てて縄を張れば、そこが自分の土地になったという…そういう時代だったんですね。通学途中なので何か買うということはありませんでしたし、ちょっと怖かったのでヤミ市の奥に入り込むことはなかったですが、一間(1.8m)四方の区画に分かれた店が並んでいて、店先に裸電球がぶらさがり、食料品から衣類、魚、野菜、酒まで色々なものを売っていました。東口は食料品中心、西口の方は国防色の品物が多かった記憶があり、払下げ、横流しの軍需物資の売買がヤミ市発祥の一因だったのではないかと思います。西口駅前広場の街頭テレビで力道山のプロレスなどをよく見ました。映画館もたくさんありました。大学生になってからは、よく西口の飲み屋(ヤミ市ではない普通の店)に通ったものです。そろばん塾がはねた後、目白から池袋まで自転車を飛ばして。焼酎は飲みませんでしたが、日本酒やビール、それからウィスキーはトリスでしたね。襲で当時住んでいた目白の家を焼け出され、父が巣鴨学園に勤めていましたので、学校が気になるという父の背中にしがみつくように目をつぶって戦火の中を目白から巣鴨まで歩きました。池袋は一面焼け野原で、東口から立教の校舎が見えました。途中、焼け死んだ人を見つけるたびに、あそこにもいる、ここにもいると父が教えるのでもう怖くて怖くて。六つ又のところまで来たときに、父が何も言わなくなったので、もう死体はなくなったのかと思って目を開けたら、数えきれないぐらいの死体が転がっていて…今でもあそこを通るとその時の光景が目に浮かびます。戦後、疎開先の鹿児島から戻ってきたのち、父の学校に近いここ(北大塚)に家を建ててずっと住んでいますが、ヤミ市は池袋にも大塚の駅前にも立ちました。最初は、地べたにじかに敷物を敷き、その上に品物を並べて売っていたのが、木の台の上になり、台の高さがだんだんあがってきて、そのうち四方に棒を立てて屋根までつけた屋台になり、いつのまにか店になっていきました。ゆでたお芋を斜めに切ったのを三切れ並べただけのが当時一皿100円。とても高くて手が出ませんでしたが、お腹が空いていたので、横目でじっと睨んで通り過ぎたものです。母を早くに亡くしていましたので、戦後は弟たちを育てるのに必死でしたが、本当に大変な時代でした。にら1962年 池袋西口(高木進一氏提供) 1962年 池袋西口(高木進一氏提供) 昭和22年星野朗氏調査「豊島区史」通史編3掲載図をもとに作成◆連鎖商店街名❶❷❸❹❺❻❼❽❾1011森田組東口マーケット 1946年3月開設(約300店舗)豊島マーケット 1946年7月開設(11軒)東京マーケット 1946年夏開設(45軒)森田組西口マーケット 1946年10月開設(136軒)仁栄マーケット(本館・別館) 1946年12月開設永安公司(A・B) 1947年2月開設(A47軒、B13軒)池袋復興商店街 1947年2月開設(492軒)平和マーケット 1947年3月開設(4軒)ミューズマーケット 1947年4月開設(9軒)東口マーケット 1947年5月建築中(18軒)池袋銀座商店街 1947年5月建築中1950年頃 西口マーケット(豊島新聞社提供) 1950年頃 西口マーケット(豊島新聞社提供) 1962年 西口マーケット入口(高木進一氏提供) 1962年 西口マーケット入口(高木進一氏提供) 武蔵野線東上線西口都電山手線至巣鴨方面11❾❺本❺別❼❸❹❻B10❶❽

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