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平成27(2015)年8月15日広 報とし2子ども家庭部 子ども長崎小学校 6年生中濱 史織千川中学校 2年生鵜浦 真愛勇気をもって作文コンテスト受賞作品作文コンテスト受賞作品みんなちがってみんないい常任委員長賞うしやまたかはま しおりうのうら まな 学校の授業で、金子みすゞさんの「私と小鳥とすずと」を読んだことがあります。最後に「みんなちがってみんないい」という言葉で終わる有名な詩です。最初はそれほど意味も分からず読んでいましたが、あとでこの詩はすごく深いと感じるようになりました。 ある日、学級会でクラスのめあてを決めていました。私は友達と意見が合わなくて言い争いをしてしまいました。そんな時、司会の人が言いました。「どっちの意見も入れればいいんじゃない。」私はそれを聞いて、はっとしました。そう言われてみると、友達の意見も私の意見とはちがうけれど、まちがってはいないことに気が付きました。 算数などの問題は、答えが「正解」「まちがい」とはっきりしていますが、人の考えはちがいます。どっちが正解でどっちがまちがいかなんて、はっきりとは答えが出ないんじゃないかと思い始めました。 人は、ひとりひとり顔つきがちがうように、考えていることもちがうはずです。お互いの意見がちがったり、言いたい意味がしっかり伝わらない時もたくさんあります。 けれども、「この人はこのような意見を持っているんだな。」「こういう考え方もあるんだな。」とお互いに受け入れて、理解しようとする姿勢が大切なのではないかと私は考えるようになりました。どんな意見があっても、どんなにちがっていても、それが当たり前だからです。 学級会の出来事があってから、金子みすゞさんの詩を改めて読んでみました。「私」も「小鳥」も「すず」もそれぞれよいところがちがいます。「みんなちがってみんないい」というのは、それぞれの良さをみとめるということを伝えたかったのではないかと思いました。 学級会でも、友達の意見を聞かず、自分の意見ばかり言っていたら、ケンカになってしまって話し合いにならなかったと思います。司会の人に言われて、友達の意見と私の意見はちがっているけれど、どっちがまちがいというわけではないことに気が付きました。考え方がちがっても、いいところを合わせたり、ゆずり合ったりすることで、はじめに考えていたものよりも、もっといい目当てが出来たのだと思います。 世の中にはたくさんの人がいます。それぞれ意見や考え方、文化、歴史などいろいろなものがちがいます。考え方がちがってもどちらが正しいかは、かんたんに決められるものではないと思います。それぞれのちがいを受けとめて、お互いを理解しようとすれば、争いもへるだろうし、差別などもなくなるのではないでしょうか。わたしたちひとりひとりが気持ちを切りかえることで、社会全体がよりよい方向へと進んでいくのではないかと思いました。 いじめ。この言葉を耳にしたことがないと言う人は、まずいないでしょう。テレビのニュースや新聞などで取り上げられることの多い言葉です。誰もが知っているいじめ、関係ないと思っていてもある日突然に、身近なことになってしまうものだと思います。尊い命を簡単に捨てることができ、けなすことのできるいじめ。関わったことがない人は少ないのではないでしょうか。 私はいじめる側、いじめられる側、どちらにも立ったことがあります。立場は全く異なる二つですが、幸せではないということはどちらにも共通して言えることです。具体的にどのように幸せでないのか今から話します。 まず、二年生のとき。このとき私は、ある人をいじめていました。特別嫌いでもなかったのですが、周りの子がやっているからという感じでいじめていました。陰でコソコソと「キモい」や「うざい」という悪口を言ったこともあります。また、その子の物をかくそうとしている所を見て見ぬふりをしたこともあります。周りの人も私も、それを笑顔でやっていました。ですが、心の底から『いじめ』を楽しむということは無理でした。人間は皆、良心というものを持っていて悪さをすると、そこがチクチク痛むからです。その頃の私は、幼かったので良心というものは知らなかったのですが、心に黒いしみがついていくことだけは感じました。 次に小三のとき。このとき、去年までいじめる側だった私は、いじめられる側に立っていました。いじめられる側は毎日が戦いで、とても苦しかったです。ご飯も食べられない日がありました。悪口を言われても、物をかくされても、泣くもんかと歯をくいしばる日が続きました。がまんをしきれず、涙を流してしまう日もありましたが、その時頭に浮かんだのが小二の時いじめられてた子のことです。私はその子になんてことをしていたのだろう。後悔しても、しきれないほどひどいことをした。そう思いました。悪口を言われる辛さ、周りのものをかくされる恐ろしさ。そして、見て見ぬふりをされた時の何とも言えない悲しさ。今の自分なら、全部分かるのにといじめられることより、いじめてしまった過去をくやみました。それから何日かして、いじめっ子に向かって、こう口を開いてくれた子がいました。「これ以上いじめて、何になるの。恥ずかしくないの。もうやめようよ。」と。とても嬉しかったです。そして、私もいじめを止められる人になりたいと思ったことは今でも忘れていません。 中二になった今、もしも時間を戻せるなら私は小二のころに戻りたいです。そして、私はいじめる側に立つのではなく、こう声をかけたいです。「いじめなんかしても楽しくないでしょ。いじめられたら、どんな気持ちになるかな。きっと不安な気持ちになるよ。」と。また、身近にいじめが起きてしまっても「やめて」と一言、言える人間になりたいです。勇気を持てる人間になりたいです。そしてその勇気を広げていきたいです。これが、私にとっての目標です。 私たちはふだん、一人一人の居場所があって生活しています。みなさんは一度罪を犯した人がこわいと思いますか。私は少しこわいです。もし同じように罪を犯し続けたら私たちの命にも関わるかもしれません。罪を犯してしまった事は決して許される事ではありません。けれどもそんな人たちがいずれ社会に出て、新しい人生を歩み出そうとする時、私たちがこわがっていたら意味がありません。そしてその人の居場所もなくなってしまいます。私も自分たちの居場所が消えてしまったら、心が悲しくなります。このように、人の立場になるという事はとても大切な事です。 最近、こ独死という事故が多い事をよくニュースで耳にします。こ独という事は一人ぼっちという事なのでしょうか。もしそうだとすると、こ独になった人に仲間がいればそのような事故はなくなるのでしょうか。それもむずかしいと思います。 しかし私たちにできる事もあります。例えばあいさつです。「おはようございます。」「いってきます。」「さようなら。」などのあいさつを積極的に行えば、そのうような未来もすくえるのではないでしょうか。 私もあいさつをする事にはいつも心がけています。家族、地域の方、友達、先生方などたくさんの方々に場面に合ったあいさつをします。すると、一日笑顔で過ごせるような気分になれます。このようにあいさつというものは悲しい気持ちの人でも自然と笑顔になれるものです。やはりあいさつをするという事は大切です。 これからの社会では、罪を犯してしまい、こ独になってしまう人がいると思います。そんな時、そうなる前にそんな人と向き合い、これから歩む新しい未来を応えんしていけたらと思っています。今、私たちにできる事はあいさつという小さな事だけど、未来をかえる一歩になればと思います。もちろん、毎日会う友達や家族、そして地いきの方々にもあいさつをしっかりしていきます。これからは罪を犯した人と正面から向き合うことを大切にし、日々のあいさつも心がけていきます。 私は最近法務省のおかえり。プロジェクトのサイトを見て、「おかえり」という言葉について考えました。 「おかえり」とは、普段の生活の中で何気なく使っている身近な言葉で、「ただいま」と自分が言えば「おかえり」と返って来て、その反対に誰かが帰って来たら「おかえり」と言う、私達にとってはそれが当たり前で、それが当たり前すぎて、最近は言っていないという人もいるのではないでしょうか。そんな何気ない言葉ですが、この一言は実はとても大切で、色々な想いが詰まっていると私は思います。辞書で「おかえり」と調べると、帰宅した人を迎える挨拶の言葉と載っています。では、この言葉は誰もが普段から使うことができているのでしょうか。例えば、一人暮らしの人。家に帰っても誰もいないし、ただいまやおかえりなんて使わない…と考える人がいるかもしれませんが、それは違います。「使わない」ではなく、「使えない」のです。例え「ただいま」と言っても、「おかえり」を言ってくれる人がいないのです。自分達からしたらただの何気ない一言ですが、その「ただの一言」が使いたくても使えない人がこの世にはたくさんいるのではないでしょうか。「おかえり」は、誰かがその人の居場所に帰って来たときにそれを迎える意味として使います。自分の居場所…。「ここが自分の居場所」だと、自信を持って言えますか。例えば、いじめが原因で、学校に行きたくない。家に帰っても悩みを打ちあけられる人がいない。自分に居場所はない。そう思っている人がいるかもしれません。でも、その人には本当に「おかえり」と言ってくれる人がいないのでしょうか。誰か一人でもそう言ってくれる人がいるのなら、それは自分にも居場所があるということだと思います。たったの一言で、誰かを救うことができるかもしれないのです。犯してしまった罪を償って帰って来た人へのおかえり…。また、特別な理由がなくても、普段の生活で使うことだってできます。私達の生活の中には、「おかえり」と使う出来事で溢れているのです。 私は、一つの言葉について少し詳しく考えただけで、考える前と今とで気持ちが大きく変化しました。この頃全然使っていなかったけれど、今日使ってみようかなと思う人もいるかもしれません。 普段の生活の中で、「おかえり」と言うだけで、例えば犯罪を減らせるのかもしれないと考えても、普段あまり現実的に、身近に感じる事ではないので、すぐには無理かもしれません。でも、このような小さな出来事を皆が意識して積みかさねていけば、犯罪を減らすことにつながるかもしれないのです。それに、犯罪を減らすことにすぐにはつながらなくても、誰か一人に「おかえり」と言えば、社会を明るくすることはできるのではないでしょうか。「おかえり」の一言でその人に居場所を与え、気持ちを温かくすることができるのです。誰かを救うことができるかもしれないのです。 家などの場所でなくても、学校帰り等に近所の人に会い、挨拶をすると「おかえりなさい」と言ってもらえます。そうするとなんだか嬉しくなります。家族に「おかえり」と言ってもらうと、外で悲しいことや嫌なことがあった日でも、ほっとして、話を聞いてもらいたくなります。楽しい事や嬉しい事があった時も「おかえり」と言ってもらうとよけい嬉しくなります。逆に家族が帰って来たときの「おかえり」と言って返ってきた「ただいま」の一言で「何か良いことがあったのかな」とか「疲れたのかな」と、家族のことを考えます。 自分が、「おかえり」と言われたときの嬉しく、穏やかな気持ちが分かるからこそ、他の人にも温かい気持ちで「おかえり」と言うことができるのだと思います。この気持ちを忘れずに、今後このような小さなことから社会を明るくできるようにしていきたいです。 長崎小学校 6年 大切なあいさつ優秀賞常任委員長賞牛山 せな 「おかえり」の一言で駒込中学校 2年生半田 綾美優秀賞はんだ あやみ小学生の部中学生の部「区民のつどい」演劇 銀河鉄道の夜

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