20190815_gougai
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関 日向花さんせき ひ な か助け合い、支え合いを大切にしよう優秀賞 社会を明るくするには、助け合い、支え合いが大切だと思います。助け合い、支え合いをすることで困っている人たちが助かり、全員が明るい気持ちになれると思ったからです。また、私も困っている時に助けてもらい、とても助かったことがあるからです。 以前、私が習い事におくれそうになって急いでいたことがありました。ちゅうりん場を通ろうとしていたときに、置いてあった自転車にせおっていたリュックサックがあたってしまいました。自転車はドミノのように他の自転車をまきこんでたおれていきました。そしたら、そばを通りかかった中学生の人たちがかけつけて、なおすのを手伝ってくれました。とても、助かりました。 このことから、私も手伝ってくれた中学生のようにだれかを助けてあげたいと思いました。でも、だれかを助けるにはとても勇気がいると思います。 先日、電車に乗っていたときのことです。私は席にすわっていました。そしたら、一人のつえをついたおばあさんが乗ってきました。まわりを見まわしてみると席は全てうまっていました。そこで私はおばあさんに席に変わってあげようと思いました。しかし、話しかけるのが少しはずかしくて、また、断られたらどうしようという不安もあったため、少しまよってしまいました。そしたら、目の前にすわっていた人がおばあさんに「席、変わりましょうか。」と声をかけていました。私はその人のことを、声を長崎小学校 6年生田島 美咲さん た じま み さき社会を明るくするために優秀賞西池袋中学校 2年生裏切られた命優秀賞あの時から感じている事優秀賞仰高小学校 6年生森原 祐香さんもりはら ゆ か池袋中学校2年生荒川 花さんあらかわ はなかけられなかった私と違って、すごいと思いました。 私は、このことから、助け合いには勇気がいると知りました。だから、私は人を助けることに臆することないようにする方法を考えました。それは、あいさつをすることです。あいさつをいつもすることで知らない人に声をかけることもやりやすくなるのではないかと思います。 また、助け合い、支え合いをすることで、犯罪も防ぐことができるのではないのでしょうか。犯罪は心にブレーキがかけられない人が犯します。そのブレーキに助け合い、支え合いがなれるのではないかと思います。なぜなら、助け合い、支え合いで、人の心とふれ合えると思ったからです。助け合い、支え合いをするとき心には、相手を想う気持ちがあります。その気持ちを感じることで、「私もだれかを助けたい」や、「私もいいことをしたい」と思うことができます。また、犯罪を犯す前の人には、「とてもいい人たちはたくさんいるのになぜ私は悪い人になろうとしているんだろう。犯罪を犯すのは嫌だ。」というようなブレーキになるのではないのでしょうか。だから、助け合い、支え合いをすることで、犯罪を防ぐことができると思います。 私は、だれかを助けることはいままでしていきませんでした。しかし、今回助け合い、支え合いについて考えてみて、助け合うことの素晴らしさを知りました。だから、少し勇気を出して、だれかを助けることをしてみたいと思います。 命。それは、たった一つしかない大切なものです。命があれば、運動ができたり、友達と話したり食べ物を食べたりでき、そして何より生きることが出来ます。そんな命を私は誇りに思っています。 しかし、日本中には命の大切さが分かっていない人がたくさんいて、命を無駄にしてしまう人も、少なくありません。私は、そんな人たちが少しでも減ってほしいと思っています。 私がまだ幼い頃は考え方もあまく、人間はみんな体の大きさや形、生活のしかたなど、あたりまえのように似ているものだと思っていました。だから、生まれつき体が変だったり、私と少しでもなにかが違ったりすると不思議に思っていました。 私が小学校に入学し、学校生活を送っていたある日、一人の友達に、右のほっぺにあざみたいなのあるね、と言われたことがありました。母に聞くと、私は他の子と違って、生まれつき血管腫というものをもっていたことが分かりました。その時私は初めて、自分は他の子と少し違うことを知りました。 けれど、まだ小学校低学年だったので、そんなことはあまり気にせず学校生活を過ごしていました。しかし、高学年になり少しずつ大人に近づいていく頃、自分が他の子と少し違うことが気になり始め、友達に何か少しでも気にかけられると、不安になって自分が嫌になってしまうこともありました。 そんな私を助けてくれたのは六年生の時の担任の先生でした。人はそれぞれ自分の個性をもっていい、みんな違うからいいんだ、人それぞれ人として生きていることが、どれだけ素晴らしいことか私は思いしらされました。 それから私は、前向きに生きていこうと思うようになり、自分が嫌だと思うことが、だんだんなくなっていきました。中学生になった今でも、友達に聞かれることはありますが、あの時の先生の言葉のおかげで、楽しく生活することが出来ています。 けれど、私の他にも自分の生まれつきのことなどで悩んでいる人や、もっと苦しい病気と戦っている人はたくさんいると思います。そんな中でテレビや新聞で毎回悲惨なニュースがあると、私もとても悲しいし、もっと苦しいのは、一生懸命病気と戦っている人達だと思います。また、生きたいと思っていても生きることが出来ない人達だって少なくないのに、自分の身勝手な判断で命の事を考えない人に私は悲しさでいっぱいです。少しでも多くの人に現状を知ってもらって、命があることがどれだけ素晴らしいことなのか、実感してほしいです。 昔は、戦争などで国のために命を懸けて、戦っていました。そして、戦争がない今、改めて、命のことについて考えるべきだと思います。私一人がこう思っていても、なかなか知ってもらえないと思います。だから、まず身の回りの人に伝えていきたいです。たくさんの人に分かってもらえるのは、厳しいかもしれないけれど、一人でも多くの人に分かってもらえたら、一歩前に進めると私は思います。 人間は、一人一人違うからこそ尊重し合い、助け合うことが出来ます。それを行うには、自分と少し違うことがある人でも、一人の人間として認めることが必要です。何かが違っていても命があることは絶対に同じです。私は、このことを今よりも考えて、人に認められる人になっていきたいです。このような人達が増えていけば、社会は明るくなっていくと思います。 「ずっと、ずっと待っているから。」犬はその人をずっと待ち続けて、処分機の中で息絶えていく。犬は飼い主を選べない。犬が飼い主をきらっても、「人間愛護センター」というものはないし、殺すこともできない。しかし、飼い主が犬をきらうと、「動物愛護センター」というところに捨てることはできるし、殺すこともできる。動物愛護センターに捨てられ、殺された犬たちの死に顔は、人間をうらんでいるようには見えない。彼らはきっと、最期のその瞬間までその人が迎えに来ると信じて待っていたのだろう。 「だれかをきらいになるより、だれかを信じているほうが幸せだよ。」犬たちの声が聞こえる。この命、灰になるために生まれたわけじゃないのに。 保健所では、次々と飼い主によって犬が持ちこまれた。 「人をかんだ、世話ができない、しつけができない、飽きた、バカだから...」あきれるほど身勝手な理由で、次々と犬を置き去りにしていく。動物愛護センターが開設してからは、各保健所で犬たちが処分されることはなくなり、かわりにセンターの管理棟という場所で処分される。愛護センターで働いている人たちは、犬たちを自分の手で殺す。自分の犬を平気で他人に殺させる飼い主たち。一人、また一人、人間としての責任を放棄し、罪を重ねる者が増えるごとに、犬たちはその命の叫びを働いている人間に託し、この世を去っていくのだった。 センターでの処分は、ボタンひとつで行われる。犬たちを処分機に追いやり、その処分機の中に二酸化炭素ガスを流す。夢の中にいるかのように安らかに死ねる処分機だが、楽に死ねれば殺していい、というものではない。「楽な殺し方」を議論するより、犬たちが人間の手によって殺されずにすむ社会を築くにはどうしたらいいのかを考える人々が増えなければいけないと思った。 アホな犬と言って、犬を捨てる飼い主がいるが、アホな犬なんていない。人間は生まれてすぐに、お箸は持てないしくつひもも結べない。教えてもらって初めてできるようになる。じゃあ犬も同じ。飼い主が教えないと、赤ちゃんのまま。 ほえるアホ犬と言って、犬を捨てる人もいる。犬はしゃべれない。例えば、飼い主がちゃんと散歩に連れていかないとすると犬はトイレをがまんする。飼い主が気付かないと犬は何もできない。ほえるのにも理由がある。 かむ犬だからと言って、犬を捨てる人もいる。例えば、友達が自分の顔に手のひらをかざしおどろかされたら、自分も反撃して友達の手を振り払い「やめて」と言うだろう。でも犬は、とつぜん人間に手のひらを頭に持ってこられてびっくりしても、手のひらで振り払うことはできない。ガブっと噛むことが、人間の「やめて」につながる。 犬は飼い主で変わる。 生まれつきアホな犬はいない。しつけをするのも、犬をりこうにするのも、すべては人間の役目。 命というものは「息」だけさせて、生かしておいたら良いというものじゃない。命を預かるということは、その「命を幸せにする」ということまで考えなければいけない。病気になったら?けがしたら?オスとメスがいたら、子供も生まれる。「かわいそう」「かわいい」という気持ちだけでは「命」は簡単には預かれない。 動物愛護センターには譲渡会というものがある。健康状態、性格などを考慮して、譲渡会用の犬が選ばれる。しかし、しつけや世話が出来る数は限られており譲渡会に出られなかった犬は処分され、助かる犬は年間わずか百数頭に満たない。まさに「命のイス取りゲーム」だ。 譲渡会の講習会では飼い主募集にあたり、厳しい条件を希望者に伝えている。・家族全員が動物を飼うことに賛成か?・終生飼えるか?・動物を飼うのに適した住環境か?・経済的余裕はあるか?・ご近所に迷惑をかけずに飼えるか?などの項目のすべてに同意できない希望者には譲渡はしない。犬を一頭、家族として、その寿命をまっとうするまで飼うには、車一台分に相当する費用がかかる。「飼いたい」と「飼える」は、全く違う。犬は十年以上生きる。犬のために「犬を飼わない」という選択もある。犬がどんなに好きでも、犬を幸せにできるという確信が持てなければ「欲しくても飼わない」と決めるのも、ひとつの動物愛護。人間のエゴと無責任な行動で、うばわれたたくさんの「命」。 「命を預かる責任は大きい」 不幸な命を減らすために、知ってほしい。 自分の中で、前に進めない気持ちを残すような出来事があったので、この作文に書きたいと思った。それはクラスの中で起きていた「いじめ」の事だ。私はそのいじめをとめられずに見ているだけだった。いじめの内容は一人の子に対して大勢で避ける、傷付く言葉をふっかける、というものだった。同じクラスの人たちは、その場から逃げる人、笑っている人、話題を変える人、見て見ぬふりをする人、と様々だった。私は話題を変えたり、逃げたりした。その場から逃げた後、逃げない方がよかったかな、大丈夫かな、と感じていた。何度もこんな出来事が続いたとき、自分が出来る事として話題を変えてみた。すると、少し空気が良くなった気がした。私は少し嬉しくなった。 いじめを受けた本人は、先生に相談したり、トイレや別の場所で泣いていた。話を聞いた先生はいじめをしていた子達に何度も何度も注意したが、その場だけで、いじめが止むことはなく、無くなることもなく、場所を変えて増すだけだった。その子は何も言い返せずにいた。言い返さないことがその子なりの抵抗だったり、反撃だったのかもしれない。どちらにしても、勇気がいることだったはずだし、つらかったに違いないと思う。 やっている人はどうだっただろう。面白半分で人をいじめていたのかもしれない。注意をされても、そんなに傷付いていたのは知らなかったというのかもしれない。でも何気ない一言のせいで一人がとても苦しんでいたことはわかっているはずだし、気が付かなかったわけがないと思う。されていやなことはしてはいけない。小さい頃から教えられてきたことが守れなくなり、言葉が強くなって、いじめにつながってしまうことが怖かった。 テレビでもいじめに関するニュースをよく見る。自殺をしたというケースが多くなってきた。ニュースを見るのが怖くなる。学校でもホットラインの手紙が配られた。あの時、いじめを受けた子にとって学校は決して安心して通える環境ではなかったはずだ。毎日ドキドキしていたと思うし、正門をくぐるとき楽しい気持ちではなかったと思う。少しでもその子が楽になるような言葉をかけていればその子は安心して学校に来れていたのかなと考えることがある。もし、また同じようなことが起こった時、今感じている気持ちを思い出して、友だちに声をかけてみようと思う。自分だけでできないことでも、友達と一緒だったら勇気が出せると思うから。令和元(2019)年8月15日
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